1.神について
「はじめに神が天と地とを創造された。」(旧約聖書 創世記1章1節)
聖書はこの世界は偶然できたものではなく、創造主である全知全能の神が創られたのだとはっきり語っています。
(今どき、そんなこと非科学的だと思われる方、進化論も事実ではなく「多くの科学者が指示している仮説」であること、「神が世界を創られた」ことを科学的に研究する創造科学という分野もあることをご存じですか?)
創造主である神はご自分が創ったものであるすべての人(あなた)を
無条件に愛しておられます。
神の愛は犠牲の愛であり、永遠の愛であり、不変の愛です。
そして、すべての人(あなた)に目的を持って創られ、その人生を素晴らしいものにしようと(聖書では「祝福する」と言います。)しておられます。
2.人間について
■あなたには価値がある
人間は神によって創られたもの、神の最高傑作であると聖書には書かれています。
偉大な芸術家の作品は、お金には換えられないほどの大きな価値があります。
その偉大な芸術家よりもさらに偉大な神の作品に価値のないはずがないのです。
あなたは神によって創られた、だたそれだけで価値があるのです。
私たちはこの世界を創られた神の最高傑作であり、また神に愛され、神が私たちの人生を祝福しようとしておられるのに、なぜこの世は不幸で満ち、悩みがあるのでしょうか。
「あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切となり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」 (旧約聖書 イザヤ書59章2節)
神の愛と祝福を受けることができないのは私たち人間の罪のためだと聖書は語っています。
■罪とは何でしょうか?
@ 的はずれ
この世界は神が創ったのですから、神が中心に動いています。
それなのに人間中心、自分中心に生きることが「的はずれ」の罪です。
ある設計士が美しく、複雑な完璧に計算されつくした「建築物」を設計しました。
そしてそれを建てるために、大工さんを雇いました。
しかし、もしその大工さんが設計士の書いた設計図を無視して、自分の思う通りに建ててしまったら、その建築物はどうなるでしょう。
用意された材料が足りなくなるかもしれませんし、余ってしまうかもしれません。
もしかしたら、途中で訳がわからなくなって完成できないかもしれません。
何とかできあがったとしても、後から何かと不都合なことがでてくるかもしれません。
くずれてしまう可能性もあります。
何よりも、それは設計士が設計した完璧なものとは、全く違う建物なのです。
神は私たち一人ひとりに完璧な計画をもって造り、生かしています。
それなのに、その神の計画を無視して自分の思うままに生きることは、設計士の設計図を無視して建物を建てる大工さんと同じなのです。 |
A 不法
すべての人は不法の罪を犯しています。
不法とは何も法律を犯すことだけではありません。
私たちが日常的に行っているようなちょっとしたうそやごまかし、
「このくらいなら・・・」と思うようなことも、
絶対的に正しく、きよい神の目から見たら罪なのです。
心で思っても言葉や行動に出さなければ罪ではない。
私たち日本人の多くはそのように考えます。
しかし、義なる神は行いだけではなく、私たちの心の中も問題にされます。
人の悪口は口で人を殺すことであり、「あんなやついなくなればいい」などと心の中で思うなら、思いで人を殺すことなのです。
■「義人はいない一人もいない。」
(新約聖書 ローマ3章10節)
人が本当に正直に心の奥をみつめるなら、「私には罪がない」とは言うことはできないでしょう。
<義>とは一度も罪を犯していないという意味です。
■「罪からくる報酬は死です。」
(新約聖書 ローマ6章23節)
<死>とは私たちが普通考える肉体の死だけでなく、精神の死と第二の死を現します。
・精神の死
あなたが自分を創ってくださった神を知らず、信じていないとき、あなたの心の中心には「我」(自己中心、欲、罪)が座っています。
問題がないときは静かですが、ひとたび問題が起こると、この「我」から不平、不満、つぶやき、不安、恐れ、思い煩い、孤独、むなしさが出てきます。
これを解決するためにあなたは酒に、仕事に、お金に、趣味や遊びに、異性に、宗教に、その他もろもろのことに求めていきます。これらは一時的にその人を満たしてくれますが、根本的な問題である「我」が解決されていないのでまた何かが起こると心の内は不平、不満・・・(中略)・・・むなしさでいっぱいになるのです。
・第二の死
永遠の滅びのことです。あなたが死んだ後もあなたのたましいは永遠に生き続けます。
人は罪を持ったままで天国に行くことはできないのです。
■罪の解決
神はあなたを愛し、あなたの人生を祝福したいのです。
しかし神は愛の神であると同時に義の神でもあります。
絶対的に正しい神はあなたのどんな小さな罪も見逃すことができないのです。
「人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(新約聖書 ヘブル9章27節)
というように、私たち人間は罪を持ったまま死ねば、神の公平な裁きにより、永遠の刑罰を受けなければなりません。
ところが、神はあなたを愛しているので、あなたが永遠の刑罰を受けなくてもすむ方法を一つだけ用意してくださいました。
それが、
あなたの身代わりにイエス・キリストを罰するという方法だったのです。
3.イエス・キリストについて
■キリストの十字架は神の愛のあらわれです
- 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (新約聖書 ヨハネ3章16節)
- 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 (新約聖書 Tヨハネ4章9節)
あなたを創ってくださった神は、ご自分の愛をイエス・キリストを通してあらわしてくださいました。
イエス・キリストが十字架にかかられたのは歴史的事実です。
この事実をみるとき、神があなたをどれほど愛しておられるかがはっきりとわかるのです。
キリストもまた、自分のいのちを投げ出すほどあなたを愛し、あなたを罪と裁きから救い出すために自らすすんで十字架にかかられたのです。
■キリストの十字架は身代わりの死です
- 父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。 (新約聖書 ルカ23章34節)
これは十字架のうえでご自分を十字架につけた人たちのことを祈ったキリストの言葉です。
当時十字架刑は極悪人が処せられる重罰でした。
イエス・キリストは何一つ罪を犯していないのに、生きたまま手と足に釘を打ち付けられ、自分の全体重をその傷口で支えているような想像を絶する痛みと苦しみと屈辱の中でこのように祈られたのです。
あるとき、みっちゃんが顔にやけどの傷がある母親に言いました。「私はもうお母さんと一緒に歩くのはいや。学校でみんなにみっちゃんの母さんはおばけだと言われるから。」と。そのとき母親は「この傷は、みっちゃんが小さいとき、やかんの煮えたぎっているお湯をかぶりそうになったので、私がみっちゃんとやかんの間に飛んでいったときにできた傷なのよ。」と言いました。みっちゃんは「ごめんなさい。これからはみんなに何と言われてもお母さんのこと誇りに思うわ。」と母を愛したということです。
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イエス・キリストの十字架はちょうどこのようなものです。
■十字架の力によって
「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(新約聖書 Tコリント1章18節)
- 罪が赦されます
「たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(旧約聖書 イザヤ1章18節)
- 新しく生まれ変わります
「だれでもキリストのうちのあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(新約聖書 Uコリント5章17節)
- 勝利の生活ができます
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(新約聖書 Tヨハネ5章4節)
- 永遠のいのちがあたえられます
「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(新約聖書
Tヨハネ5章11、12節)
4.聖書は・・・
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偉大な伝道者パウロが告白しています。
「私はしたいと思っている善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。」(新約聖書 ローマ7章19節)
あなたにも思い当たるところがあるのではないでしょうか。
また、悪いことだと知っていながら
その誘惑に負けてしまう、
それどころかその罪から離れたくない
自分がいることに気が付きます。
私たちは罪に縛られ、罪の奴隷となっているのです。 |
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イエス・キリストの十字架によって救われると・・・ |
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あなたは
新しく生まれ変わり、
罪の奴隷から解放され、
真の自由を得ることができます。
生きる目的、生きる力が与えられ、
神のくださる平安で心の中が満たされます。
むなしさからも解放されます。
あなたの人生はあなたの幸せを最も願っておられる
偉大なる全知全能の神に導かれます。
そして、天国へのカギを手に入れるのです。 |
※この状態はマインドコントロールなどで「自分」を失ってしまうことではありません。
自分はあまりにも罪深すぎて、神の前に立つことなどできない。
そのように思われる方もあるかもれません。しかし、私たちの神さまは罪人を喜んで迎えてくださいます。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。・・・・・・
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(新約聖書 マタイ9章12、13節)
結論
あなたの本当の幸せは、この神を愛していくところにあります。
「どうぞ、わたしの心にお入り下さい。」と祈りをもって心を開きさえすれば、
キリストはあなたの心の内に入ってくださいます。
「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(新約聖書
黙示録3章20節)
母親から離れて泣いていた赤ちゃんが、母親に抱かれると安心して泣きやむように、私たち人間も、命とたましいの親である神のもとに帰るとき、本当の安心を得ることができます。